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「以前にもお願い致したように、信長殿が自分から跡継ぎの座を退くようにご説得下され。この義母からの、伏しての願いにございます」
姫の手を取ったまま、報春院は深々とその白頭巾の頭を垂れた。
「…義母上様」
姑の懇願を、濃姫はしんみりとした表情で眺めると
「織田家の行く末を案じられる義母上様のお気持ち、お察し申し上げます」
報春院に向けて、慈愛のこもった眼差しを注いだ。魚尾紋消除
静かに鎌首をもたげる報春院の顔に、春の陽のような明るく穏やかな微笑が浮かぶ。
「お分かり下さいましたか。嗚呼、さすがはお濃殿──…」
「されど、その御意には従えませぬ」
濃姫のその返答が、報春院の顔から一瞬にして笑顔を奪い取った。
「……何じゃと」
「せっかくの義母上様のお頼みなれど、その仰せには従えませぬ。ご家督は、ご嫡男である信長様が継がれるのが筋でございます」
臆する事なく、濃姫ははっきりと自らの意思を告げた。
きっと少し前の自分であったら、姑との関係に亀裂が入るのを気にして、どっちつかずの曖昧な返答をしていた事だろう。
だが、今は前とは違う。
信長がうつけではないと見抜き、彼の考えや行動、その真意に触れ、
実家をも捨てる覚悟で、唯一無二の味方になると誓ったのだ。
今の濃姫には、信長への慕情も含めて、彼を庇い立てるだけの十分な理由があった。
「お濃殿は…、あのうつけ者のせいで、この織田家がどうなっても構わぬと申されるのですか !?」
「ご安堵召されませ。殿によって織田家が栄える事はあっても、滅びるなどという事は間違ってもありませぬ」
「何故左様な事がそなた様に分かるのです !?」
「分かりまする。私はこの目で、殿の真実を見ました故」
「真実…?」
「義母上様。どうか殿のなさる事に惑わされずに、正しき目であの方を見て差し上げて下さいませ。
そうすれば義母上様にも、真実が見えて来るはずでございます」
濃姫の汚れのない、純粋で真っ直ぐな瞳が報春院の困惑顔を捕らえた。
「…いったい、信長殿の何が見えて来ると申されるのです。あの子は──」
「殿はうつけではありませぬ」
「 ? 」
「寧ろ、国を治める才能においては、信勝殿よりも殿の方が優れているやもしれませぬ」
濃姫は万感の思いを込めてそう告げた。
報春院は「は…?」という表情を浮かべるや否や、堰を切ったように笑い出した。
「お濃殿、いきなり何を申されるかと思えば。信長殿がうつけ者であるという事は、
織田家の誰も…いいえ、民百姓ですら知っている公然の事実ではありませぬか」
「確かに。殿がなさる事は何もかもが奇抜過ぎて、傍目からは単なるうつけの所業にしか見えませぬ。
されど、もしもそこに、何か意味があるとしたら? 周りを欺(あざむ)くために、あえて左様な真似をしているのだとしたら、如何です?」
「…まさか……わざとだと申されるのか !?」
濃姫は無言をもってそれを肯定した。
「そんな、馬鹿なっ」
報春院にはとても信じられない話だった。
大名家の嫡男は傅役と乳母が育てるのが慣例であるため、昔から母と子の直接的な触れ合いは殆んどなかったが、
それでも時折訪れる対面の席で、報春院は幾度となく信長とは顔を合わせて来た。
しかし、彼が信勝よりも優れていると思わされた事など、一度としてなかった。
信長は幼い頃から悪戯好きで、勉学なども度々サボっては外に遊びに出掛ける事が多く、既にこの頃か