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平手政秀の突然の自刃により、何かと騒がしかった織田家中も、桜の蕾が膨らむ頃には、すっかりいつも通りの日々を取り戻していた。
信長の思惑通り、人々は主君を諌める為に死したと噂される政秀を、情厚き忠臣として讃えたが、
肝心の信長自身は今までと何一つ変わらなかった。
服装も髪型も改めず、うつけな振る舞いもそのまま。
事情を知らぬ者たちは
「傅役殿は無駄死にであったか…」魚尾紋消除
と思わず肩を落としたものだった。
しかし、政秀の死の影響は織田家のみに留まらなかった。
その年の四月中旬──。
濃姫の生家たる美濃・斎藤家の居城 稲葉山城では、此度の一件に危機を感じた家臣たちが、
広間の上段に道三を迎え、物々しく言上奉っていた。
「お恐れながら殿!どうか、尾張との同盟解消の件、今一度お考え下さいませ」
「傅役殿の支えを失うた今、うつけの信長殿には、織田家を滅ぼす事は出来ても、存続させる事など不可能!」
「左様なうつけ者など切り捨て、今こそ東国と手を結び、共に尾張を奪い取るべきにございます!」
「…はっ、その方ら。出し抜けに何を申すかと思えば」
道三は睥睨するように、下段の両端に居並ぶ家臣たちを見やった。
「くだらぬ──。たかだか傅役一人が腹を切ったくらいの事で、何をそんなに慌てる必要がある!?」
道三が告げると、やおら一同は渋い表情になり
「大いにございます!織田と同盟を結んだ頃は、まだ“尾張の虎”と恐れられし信秀公がご存命であり、
両国の同盟を中心となって取り結んだ、扇の要とも言うべき平手殿もご健在にございました」
「左様。あの頃の織田には、共に東国に立ち向かえるだけの隠然たる力がございました故、
我々も安んじて姫様を尾張へ送り出したのでございます」
「されどその信秀公が身罷り、更には同盟の中心であった平手殿までが亡くなった今、
もはや織田との同盟によって、こちらが得られる物は何もありませぬ」
「何しろ今の当主は大うつけと嘲られる、あの信長。そのような阿呆ぉと手を結び続けるのは得策ではございませぬ」
「大方平手殿とて、信長殿のうつけぶりに悲観して自刃の道を選ばれたのでございましょう」
「ここはいっそ同盟など反故にし、尾張一円を奪い取るべく、急ぎ兵を差し向けるべきかと!」
家臣たちは遠慮というものも忘れ、口々に申し述べた。
「控えよ皆の者!殿の御前で無礼であろう!」
堪らずに、上段の最前に控えていた堀田道空が一喝すると、一同はふっと我に返ったような顔をして、慌てて口を閉じた。
「まったく、そちたちは!」
「まあ良い、道空。確かにこの者たちの申す事も一理ある」
「殿…っ」
「この儂とて一時は、信長がまことのうつけ者であれば、隙を見て尾張を我が物にしようと考えた事がある」
殿は我らの意を得たりと、家臣たちは思わず頷き合った。
「じゃがそれは、その噂が確かなればこその事。もしも織田信長という男に、
儂が後ろ楯として付き続けるだけの才覚が備わっておったとしたら……如何じゃ?」
「以前にもお願い致したように、信長殿が自分から跡継ぎの座を退くようにご説得下され。この義母からの、伏しての願いにございます」
姫の手を取ったまま、報春院は深々とその白頭巾の頭を垂れた。
「…義母上様」
姑の懇願を、濃姫はしんみりとした表情で眺めると
「織田家の行く末を案じられる義母上様のお気持ち、お察し申し上げます」
報春院に向けて、慈愛のこもった眼差しを注いだ。魚尾紋消除
静かに鎌首をもたげる報春院の顔に、春の陽のような明るく穏やかな微笑が浮かぶ。
「お分かり下さいましたか。嗚呼、さすがはお濃殿──…」
「されど、その御意には従えませぬ」
濃姫のその返答が、報春院の顔から一瞬にして笑顔を奪い取った。
「……何じゃと」
「せっかくの義母上様のお頼みなれど、その仰せには従えませぬ。ご家督は、ご嫡男である信長様が継がれるのが筋でございます」
臆する事なく、濃姫ははっきりと自らの意思を告げた。
きっと少し前の自分であったら、姑との関係に亀裂が入るのを気にして、どっちつかずの曖昧な返答をしていた事だろう。
だが、今は前とは違う。
信長がうつけではないと見抜き、彼の考えや行動、その真意に触れ、
実家をも捨てる覚悟で、唯一無二の味方になると誓ったのだ。
今の濃姫には、信長への慕情も含めて、彼を庇い立てるだけの十分な理由があった。
「お濃殿は…、あのうつけ者のせいで、この織田家がどうなっても構わぬと申されるのですか !?」
「ご安堵召されませ。殿によって織田家が栄える事はあっても、滅びるなどという事は間違ってもありませぬ」
「何故左様な事がそなた様に分かるのです !?」
「分かりまする。私はこの目で、殿の真実を見ました故」
「真実…?」
「義母上様。どうか殿のなさる事に惑わされずに、正しき目であの方を見て差し上げて下さいませ。
そうすれば義母上様にも、真実が見えて来るはずでございます」
濃姫の汚れのない、純粋で真っ直ぐな瞳が報春院の困惑顔を捕らえた。
「…いったい、信長殿の何が見えて来ると申されるのです。あの子は──」
「殿はうつけではありませぬ」
「 ? 」
「寧ろ、国を治める才能においては、信勝殿よりも殿の方が優れているやもしれませぬ」
濃姫は万感の思いを込めてそう告げた。
報春院は「は…?」という表情を浮かべるや否や、堰を切ったように笑い出した。
「お濃殿、いきなり何を申されるかと思えば。信長殿がうつけ者であるという事は、
織田家の誰も…いいえ、民百姓ですら知っている公然の事実ではありませぬか」
「確かに。殿がなさる事は何もかもが奇抜過ぎて、傍目からは単なるうつけの所業にしか見えませぬ。
されど、もしもそこに、何か意味があるとしたら? 周りを欺(あざむ)くために、あえて左様な真似をしているのだとしたら、如何です?」
「…まさか……わざとだと申されるのか !?」
濃姫は無言をもってそれを肯定した。
「そんな、馬鹿なっ」
報春院にはとても信じられない話だった。
大名家の嫡男は傅役と乳母が育てるのが慣例であるため、昔から母と子の直接的な触れ合いは殆んどなかったが、
それでも時折訪れる対面の席で、報春院は幾度となく信長とは顔を合わせて来た。
しかし、彼が信勝よりも優れていると思わされた事など、一度としてなかった。
信長は幼い頃から悪戯好きで、勉学なども度々サボっては外に遊びに出掛ける事が多く、既にこの頃か
「松子ちゃん,彼ね一人で戦ってたの。今も戦ってる。主人と私はそれに手を貸すわ。」
千賀の優しい声が沁み渡る。この安心感と言う物に今までどれ程救われてきたか。自然と滲む視界に千賀が映りこむ。
「あの女将に負けちゃ駄目。周りがとやかく言おうと松子ちゃん達の関係は三人だけの物なの。他が首を突っ込んでいい物じゃない。
それにあなた達は信頼関係で成り立ってるでしょう?なのにそれを周りの意見で崩す必要はないわ。
よく考えて?あなた達がどうなろうと周りは何の責任も負う必要なんてないんだもの。
だから周りに壊されちゃ駄目。」
「千賀様ぁ……。」 魚尾紋消除
ぼろぼろ泣き崩れる三津を千賀は優しく抱きしめた。
「好かれる女も辛い立場ねぇ。女将はそれが妬ましいんでしょうけど,妬むより好かれる努力を何故しないのかしら?
気に入らない相手を排除したってそんな相手次から次へと現れるから意味ないと言うのを教えて差し上げないとねぇ。」
三津は千賀の胸に顔を埋めていたから知らない。その時千賀が意地悪い笑みを浮かべていたなんて。
町民の姿に着替えた元周は高杉と入江の後を追った。
「いやぁやはりこの格好は楽でいいな。」
「わざわざ着替えて……。」
上機嫌な元周に高杉はうんざりした顔をした。元周はお前らは礼儀も何もないなと無礼を咎めるが然程気にもしていない。
「お楽しみの様ですがこちらは結構深刻ですからね……。」
女将の行動の予測がつかない入江には得体の知れない恐怖しかない。三津に危害が及ばないのだけが安心要素ではあるが,本当に収集のつかない事態になれば……と思うと気が重い。
「とりあえずその女将とやらを近くで見ん事にはな。」
「多分店を閉めたら屯所に来るでしょう……。」
「だろうな。楽しみだ。」
元周はそう言うと気持ちが逸るせいか二人の先を行った。
屯所まであと少しの所で,道端に佇む人影を見つけた。
「あ?セツさん?」
高杉達に気付いたセツは両手を振ってそっちへ駆け寄った。
「どしたセツさん。」
「あの女将が来とるそ!今日も入江さんと会う筈なのに来ないって!山縣さんが仕事で出とるって言ったら会うまで帰らんてまだ屯所に……。」
「くくっ!予想が外れたなぁ!夕刻までも待てんとは随分愛されとるなぁ。」
引き攣った顔の入江を見て元周は愉快愉快と声を上げて笑った。
二人と居るのが元周と気付いたセツは慌てて頭を下げたが,元周はいいから早く戻って女将に会うぞと目を輝かせた。
入江は本当に頼って良かったのかとまた自問自答した。「本当に話しが通じないんですよ……。山縣さんが入江さんは奇兵隊としての仕事があると何度言っても,彼の仕事は私と一緒にお店をやる事だから出してくれるまで帰らないって……。」
「はぁ?頭大丈夫か?」
「晋作,狂っとるけぇこうなっとる。」
元周はずっと喉を鳴らしている。そんなに人の不幸が面白いかと入江はどうしても睨んでしまう。
「セツさんすみません……ご迷惑を……。」
「何言ってんのぉ!あんなのに負けてられないわよ!!私らは何があっても入江さんとお三津ちゃんの味方やけぇそんなん言いなさんな!!」
セツの喝に入江は弱々しくも笑ってみせた。
「参謀,お前はそのセツさんと少し隠れておれ。高杉と我で対応する。」
入江とセツは顔を見合わせてから承知しましたと屯所の近くに身を潜めた。
屯所につくと玄関から揉めるような声が聞こえた。
「騒がしい。」
高杉が玄関の戸を勢い良く開けて声の主をギロリと睨んだ。
「何の騒ぎや。」
「三津さん一旦綺麗な景色でも見てその目の穢れた記憶を消しておいで。赤禰さん,高杉の処分は私がしますので三津さんを海に連れてってあげてください。」
「おう……。」
腕がなるわぁと嬉しそうな文を見て赤禰は高杉の命はないなと確信した。そんな現場をフサに見せていいものかとフサも海へ誘ってみたが,
「姉上にそんな穢らわしいモノを見せた罪人の最期を見届けねばなりませんので。」
と断られた。魚尾紋消除 顔には出てないが相当怒ってるんだなと赤禰は理解した。
そして両目を押さえてシクシク泣いてる三津の肩を抱いて屯所を出ようとして門の所でまた厄介な人物と出くわした。
「赤禰君,三津の肩なんか抱いて何処へ行くんだい?」
「桂さん……いや,これには理由が……。」
「小五郎さん?今度は目が穢されました……。」
両手を外して桂を映した両目からぼたぼた涙が零れた。桂は三津の頭を撫でてどうしたと事情を聞いた。
「高杉の馬鹿が三津さんに自分の粗末なモンを見せつけたようで。なので今から海を見せて目を浄化しようと……。」
「は?そんなモノすぐに斬り落としてやる。赤禰君晋作は何処だ。」
「縁側の方で今文ちゃんから裁きを受けてるかと……。」
「分かった。赤禰君は三津を海に連れて行きなさい。」
桂は物凄い速さで屯所の中に消えて行った。「晋作!晋作は何処だ!?」
「桂さんか!?助けてくれっ!!死ぬ!俺死ぬっ!!」
高杉の悲痛な叫びが聞こえた方へ駆けつけると,
「頼むから命だけはっ!!」
高杉は文に羽交い締めにされ襷掛けに鉢巻までしたフサに長刀を突きつけていた。その脇には下帯一枚で正座させられている入江もいた。
「あっ桂様おかえりなさいませ。今手が離せませんのでしばしお待ちを。」
フサは真顔で一度桂を見たがすぐに標的を見据えた。その立ち姿はかなりの手練と思わせる雰囲気だ。
「ごめんって!ごめんってぇ!」
「煩い。潔く逝け。三津さんにまで汚いミミズ見せやがって。」
「誰がミミズじゃ!アオダイショウやろが!」
この高杉を羽交い締めで逃さない文はどれだけ力があるんだろうか。
いや,今はそんな事を考えてる場合ではない。長州の要人が女子二人に殺されかけているのは見過ごせない。
「……文ちゃんフサちゃん,晋作には私から罰を与えるから一旦二人は離れようか。女子が血に汚れることは無い。それと九一,お前も共犯でいいんだな?」
「私は隣りで体拭いちょっただけです……三津に聞いてもらったら分かるけぇ助けてください……。」
大人の男が年下の女子に下帯一枚で正座させられてるだけでも屈辱なのにと泣きそうだった。
桂から言われるならそうせざるを得ない。二人は不服そうに高杉から離れて舌打ちをした。
「あ!入江さんに高杉さんまだこんなとこで遊んじょる!さっさと湯浴みしてきなさい!!」
入江と高杉には天の助け。セツが二人を呼びに来た。正確にはセツも説教に来たのだが二人はこれ幸いと着物を持ってすたこら逃げた。
「文ちゃん,つかぬ事を聞くが君も晋作の粗末なモノを見せられたのかい?」
「あいつが塾生やった時,まだ主人と夫婦になる前にお前は醜女やけぇ男の経験ないやろうから指南しちゃると全裸で迫られた事が。」
「うむ,特段厳しい罰を与えておく。」
「痛み入ります。では三津さんを慰めに行ってあげてくださいね。早くしないと赤禰さんに持って行かれますよ。」
文とフサはではと頭を下げて夕餉の支度に戻って行った。
そして桂は急いで今度は海へ向かった。
海岸へ行くと岩場に腰を掛けて,目……私の目が……と泣く三津の背中を赤禰が擦っているところだった。
「三津さん桂さんが迎えに来てくれたけぇ戻ろうか。」
桂に気付いた赤禰は三津の背中をぽんぽんと叩いて後ろ後ろと桂の方を指差した。
振り返った三津は桂の顔を見てふんわり笑った。
部屋を飛び出した高杉は三津を探して藩邸内を駆け回る。
「サヤさん!三津さんどこや?」
「三津さんなら浴場のお掃除してはりますよ。」
「おう!ありがとう!」
庭先の掃除をする手を止めて教えてくれたサヤに手を振って浴場に向かった。
「三津さん!話がしたい!」 魚尾紋消除
裾を捲し上げてしゃがみ込んで掃除をしていた三津は,高杉の勢いにビクッと肩を跳ねさせて口を半開きにして高杉を見上げた。
「お話?今?」
「今!あと人には聞かれたくないけぇ二人きりになれるとこはないか?藩邸内は誰が聞き耳立てちょるか分からん。」
「それなら藩邸出てすぐの河原なら……。今度は何が気になったんです?」
本当に思い立ったらすぐ行動なんだなと苦笑した。掃除を終わらすから待ってと言い聞かせててきぱきと掃除を終わらせた。
「聞かれちゃいけんけぇ静かに出るぞ。」
三津の手を引いて挙動不審にあちこちに視線を向けながら廊下を歩いた。
『ふざけてるのか真面目なんかどっちなんやろ。』
とりあえず付き合って気が済むのならそうするしかない。
「今度は何やらかしはるんやろ。」
忍び足で廊下を進む高杉と三津を,サヤは庭先からくすくすと笑って眺めた。
「すぐ戻るけぇ桂さん達には言うなよ!」
門番をしていた藩士に高杉はビシッと指を差して忠告して,さぁ河原に行けと三津に指示した。
「今度は何のお話ですか?」
「三津さんは稔麿庇って怪我したそ?」
「あぁ……。しましたね。新選組に捕縛されて拷問受けたんですよ。その話ですね?」
高杉は激しく首を縦に振った。
「桂さんは言葉を濁したそっちゃ。じゃけぇその話は本人以外が口にしちゃいけんような内容なんやろなって。」
『高杉さんなりに考えてはるんや……。』
「分かりましたお話しますよ。」
三津と高杉は河原に並んで腰を下ろした。
「拷問って……何されたん?」
「えっと殴られて蹴られて水の入った桶に顔浸けられたり……。途中から気絶しちゃって気付いたら斎藤さんの部屋で手当て受けてたんで覚えてたのは少しだけ。」
「怪我の程度は……。」
「左腕と肋骨が何本か折れてたみたいです。あとは口の中噛み切ってたのと全身痣だらけ。」
結構痛かったんですよと三津はへらへら笑った。高杉はまっすぐな目で三津を見ていた。
「誰がやったそ。それは。」
三津は眉を垂れ下げ困ったように笑った。
「土方さんです。副長さん。
元々その人に恩があって向こうの女中してたんですけどね。」
そしたら土方さんの女だと勘違いされて新選組に恨みのある奴らから命を狙われるわ,今度は土方に追われてた吉田を庇った事で長州の間者と疑われるわ。
でも長州の人間と分かっていながらその事実を隠して相反する者同士の間にいた自分の自業自得なんだが。
そう言って力なく笑っていると高杉の手が三津の頭に乗っかった。そして勢い良く撫で始めた。
「ありがとう!恩にきる!稔麿を助けてくれてありがとう!」
相変わらず顔は真顔で三津にはどんな感情を持って今こうしているのか理解出来なかったが感謝の言葉に照れ臭そうに笑った。
「稔麿が三津さんを危ない目に遭わせたくないって言うのがよく分かった。
責任感じちょるんやろなぁ稔麿。」
「ですよねぇ。もういいのに。こうやって生きてるんやし。」
「いやぁそりゃ一生あいつの中に残るやろ。好きな女子をそんな目に遭わせたんやけ。」
三津がしゅんとしてしまったのに気付いて言葉を続けた。
「でも三津さんが気にする事やない。それは稔麿が戒めとして背負ってくもんや。
三津さんは稔麿を救ったんやけ胸張ったらええそ。
稔麿は二度と同じ事せんように自分に刻み込むだけじゃ。」